日本の偉人「その時、杉原千畝は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー 

日本の偉人「その時、杉原千畝は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー 

日本の偉人「その時、杉原千畝は異文化を超えた」
クロスカルチャー・ストーリー 

6000名のユダヤ人難民を救った「命のビザ」で知られる、杉原千畝(すぎはら ちうね)。海外では「センポ・スギハラ」や、「東洋のシンドラー」と呼ばれ、自らの命を顧みず多くの人々を救った英雄と慕われています。「センポ」というのは、ちうねという発音が難しい現地の人のために、ユダヤ人達に千畝自身がそう呼ばせたとされています。

また、「東洋のシンドラー」と呼ばれる所以は、自身の工場で働くユダヤ人達を、工場運営に必要な人材確保という名目で収容所に送られることになっていた多くのユダヤ人達を救ったドイツ人の実業家、オスカー・シンドラーになぞらえてそのように呼ばれているのです。

英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語など数カ国語を操る有能すぎる外交官だった千畝が、自分のことを顧みず、外務省に背いて多くの命を救った経緯、信念はどのようなものだったのでしょうか。

 

多くの言語に精通するほど猛勉強した日々

190011日、岐阜県八百津町で千畝は誕生しました。小学生の頃から成績優秀で、両親からは将来安定な医師になることを期待されていました。

しかし、千畝は医師になることよりも英語に興味を持っており、英語教師になる夢を抱いていました。そのため、大学では英語を学び、勉学に勤しんでいました。

ところが、徐々に生活が苦しくなり、公費で勉強ができる外交官留学生試験を受けることに。千畝は英語だけではなく、ドイツ語やフランス語など多くの言語を習得するため猛勉強し、見事合格。

外交官留学生として派遣されたのは、英語圏ではなく、満州のハルビンでした。英語教師という夢から方向転換してハルビンでロシア語を学び、1924年にハルビン日本領事館の満洲国外交部に就任します。ここでも千畝は才能を発揮し、外交官としての人生をスタートさせました。

しかし、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、満洲国外交部を退官。1937年には、フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任。その後、千畝の人生にとって最も重要な地、リトアニアへ赴任していきます。

千畝はリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、日本領事館開設を命じられます。その頃ヨーロッパではナチスが勢力を広げ、ユダヤ人への迫害が増大。国外から逃亡するユダヤ難民が、一時避難していたリトアニアから、入国ビザを必要としない南米スリナムや、キュラソーなどのオランダ領への逃亡を目指すようになります。

戦争は更に激しくなり、千畝は通常業務と同時に、ソ連からの情報を集めるよう指示されます。千畝は危険と背中合わせの中、混沌とする世界情勢の情報を収集し、日本に届けていました。そのため、当時のソ連から警戒され、日本の外交官の中では初めて「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として指定されるほどでした。

 

「命のビザ」発給のための、人生最大の決断

ナチスによるユダヤ人迫害は過激になり、ヒトラーを中心とするドイツ勢力が広がるにつれて、ユダヤ避難民は増えるばかり。そのため、難民を受け入れる先はほとんどなくなってしまいました。そして、19404月から再び始まったナチス・ドイツの急進撃で、ヨーロッパは西も南もふさがれてしまいます。

それから3か月後の7月。ポーランドからリトアニアに逃げてきたユダヤ避難民が、ソ連・日本を経由して、第三国に移住しようと日本を通過するためのビザを求めに、日本領事館に大勢押し寄せてきました。

千畝は一晩、ビザを発給してユダヤ人の命を救うべきか、規則に従い、外交官としての輝かしい道を守るべきか苦悩します。そして翌日、外務省と連絡を取るため、受話器を手に取ります。

「現在、大勢の避難民たちが殺到しています。ビザの発給要件を満たしていない者もいますが、とにかく今は事を窮します。発給要件を満たしていない者の発給許可をお願いします!」

切羽詰まった声で本省の役員と電話で話す千畝。領事館内では、大勢のユダヤ難民たちが必死に千畝にビザ発給を願い出ています。

「何を馬鹿なことを。発給要件を満たした者だけだと規則で決まっているだろうが。それを破るということはどういうことか、お前が分からないはずはないだろ。クビだぞ、クビ。とっととすませて、お前も早く帰国した方が良い」

この言葉を聞いて、昨晩の苦悩が再び蘇りました。千畝は電話から目をそらし、目の前で訴え続けるユダヤ難民達の必死の形相に目を向けます。

泣きわめく子供を抱きしめながら、自分も涙を流して訴える母親。

家族の事情、自分の事情を叫ぶ男性たち。

まだ死にたくないと泣きわめく若者。

 千畝は握りこぶしを震わせながら、受話器に向かって大声で怒鳴ります。

「クビなんてどうでもいい。……私に頼ってくる人々を見捨てられない! 見殺しになんてできるか!」

 千畝の怒鳴り声で、その場は静まり返ります。受話器を置き、電話線を抜いた千畝は、ユダヤ難民達に向かって叫びました。

「私は皆さんを救いたい! 発給要件を満たしていようが、いまいが、ビザを発給します!」

 一時の沈黙ののち、領事館内は歓喜の叫びに包まれました。

1人でも多くの命を救うため、入国ビザを必要としない南米キュラソー行きの「命のビザ」を千畝は書き続けます。領事館が閉鎖された後も、千畝はホテルで渡航許可証を発行。出国直前まで千畝は諦めません。駅にまで押し掛けてきたユダヤ人たちにも、発車間際まで渡航許可証を書き続け、最後の許可証を車窓から手渡し、受け取ったユダヤ人は千畝の乗った列車が見えなくなるまで手。を振り、何度も何度も頭を下げ続けました。

「命のビザ」を発給する際、一晩苦悩した千畝の言葉が、1978年に残されています。

 回訓を文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそすれと考えた。文官服務規程および何条かの違反に対する昇進停止、ないし馘首が恐ろしいからである。私も何をかくそう、回訓をうけた日、一晩中考えた・・・。

 はたして、ユダヤ民族から永遠の恨みをかってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか。

 苦慮、煩悩のあげく、私はついに人道・博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく職を賭して、忠実にこれを実行しおえたと今も確信している。

 

千畝の立場にもし自分が立ったとしたら・・・

1968年、千畝のもとへ、「命のビザ」を発給してもらったというユダヤ人から連絡がきます。その人物とは、イスラエル大使館のニシュリ参事官でした。ずっと探していた千畝と再会を果たしたニシュリ参事官は、ボロボロになったビザを握りしめながら、大粒の感謝の涙をこぼし、千畝へ感謝の思いを伝えました。

「あなたのおかげで私は命が救われました。私たちユダヤ人は、あなたのことを忘れたことはありません」

 1969年、千畝はビザの発給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣から勲章を授与されます。このことをきっかけに、千畝の「命のビザ」のエピソードは日本でも知られるようになりました。また、戦後70年の2015年には、「杉原千畝 スギハラチウネ」という映画が製作され、時を経てまた改めて、千畝の生き様、人柄、「命のビザ」の功績が現代人にも知れ渡りました。

 人種や国など関係ない、同じ人間として助けたい。その強い思いが千畝を突き動かしました。能力があったが故に、これまで努力してきた外交官としての職を失う辛さは人一倍あったことでしょう。

それでも千畝は自分に助けを求めてくる人々のため、自らの人生を顧みず、ビザを発給することを決断。千畝は「当然のことをしたまでだ」と語っていますが、果たして自分が千畝の立場であれば同じことができただろうか。思わず自分に問いかけたくなります。あなたなら、どうでしょうか?

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