日本の偉人「その時、新渡戸稲造は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー&名言 

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日本の偉人「その時、新渡戸稲造は異文化を超えた」
クロスカルチャー・ストーリー&名言 

  新渡戸稲造といえば、「武士道」、旧5000円札の顔、など身近に親しまれてきた偉人のひとりです。そして、日本人最初の国際人というイメージが強く定着されています。インターナショナルな現代、改めて新渡戸稲造の国際人としての歩み、現代に通じる語学学習の学びや姿勢などを紐解いていきたいと思います。新渡戸稲造の国際人としての原点、偉人といわれるまでになった人生はどのようなものだったのでしょうか。

新渡戸稲造 武士道の名言

人間は、それぞれ考え方や、ものの見方が違うのが当然である。

その違いを認め合い、受け入れられる広い心を持つことが大切である。 

クラーク博士の影響でクリスチャンに

186291日、陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)の、盛岡藩新渡戸十次郎の三男として誕生した稲造。作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)を卒業して間もなく、東京に住んでいる叔父から、東京で勉強させてはどうかと言われ、上京します。

13歳になった稲造は、この頃から農学の勉強を真剣に学ぶことを決意し、札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学します。創立時に副校長として1年間の契約で赴任したウィリアム・クラーク博士はすでに帰国していたため、直接の接点は持てませんでした。

クラーク博士は一期生に対して聖書を教え、一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していたため、一期生たちの伝道によって、二期生も入信する人が多くいました。稲造は、入学前からキリスト教に興味があり、英語版聖書まで自ら持ち込んでいたので、すぐにクラーク博士が残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名しました。

そして後日、同期の内村鑑三、宮部金吾、廣井勇とともに洗礼を受け、「パウロ」というクリスチャン・ネームをもらい、熱心なキリスト教信者へとなっていったのでした。

 

アメリカ、ドイツ留学。新たな学問と、かけがえのない人との出会い

札幌農学校卒業後、東京大学に入学。入学試験の際、面接官から大学に入って何を勉強したいのかと質問され、「農政学と英文学をやりたいです」と答えます。さらに面接官から、英文学をやってどうするのか訊かれ、こう答えました。

「太平洋の橋になりたいです。西洋の文化を日本に伝え、日本の文化を西洋に伝える媒酌人(ばいしゃくにん)の役を務めたいのです」

 当時、稲造20歳。この頃から国際人としてはっきりした意志を持つようになります。しかし、東京大学の授業に失望し、1年で退学。アメリカに自ら費用を出して留学を試みます。

 留学先のジョンズ・ホプキンス大学で学んでいる際、農業を経済学と結び付けて考える必要を感じ、新たな学問を創設しようとしました。

 しかしその後、ドイツに留学に行った際、農政学が既に創設され、学ばれていたことを知ります。ドイツでは農政学、農業経済学、統計などを研究し、更なる知識を身につけていきました。

 留学の際、稲造は新たな学問だけではなく、生涯でなくてはならないかけがえのない人と出会います。アメリカ留学中、日本について興味を持っているという女性を紹介されます。

 彼女の名前はメアリー・エルキントン。女性の地位向上のために熱心な活動をしていたメアリーと、日本の女子教育の向上について考えていた稲造は、同じような目的を持った者同士、次第に惹かれるようになりました。しかし、結婚に至るまでにはさまざまな障害が待ち受けていたのでした。

 

「太平洋の架け橋になる」 そして、国際結婚

 ある日、メアリーから稲造宛てにプロポーズをするラブレターが届きました。現代なら手放しで喜びたいところですが、稲造の心の中は「大変なことになった」という焦りが芽生えました。

 それもそのはず。当時の日本は西洋文化に対して知識も乏しく、メアリーが日本に嫁いできても周囲から受け入れられない恐れがあり、偏見を持って見られながら生活をしなければならない苦労が待っていることが予想されました。

 また、メアリーと同じく白人の、黄色人種に対する偏見も相当なものでした。まだまだ発展途上のアジア人に、白人の上流階級の娘を嫁に出すわけにはいかないと、家族や周囲の人々から猛反対されました。

 それまで稲造に優しく接していた周囲の西洋人も冷ややかな目で見るようになり、稲造は西洋人に対する偏見と敵意を強く抱くようになってしまったのです。

しかし、ここで自らの生涯をかけて成したい、「太平洋の架け橋になりたい」という目標を思い出します。互いの人種的偏見を乗り越えるためにも、メアリーと国際結婚をして両国間の溝を埋める必要があると考えたのでした。

そうしてメアリーのプロポーズを承諾し、結婚をすることに。すると今まで断固反対をしていたメアリーの兄弟たちが理解してくれるようになり、徐々に周囲の人々も稲造とメアリーの結婚を認めるようになっていったのでした。

 

名著『武士道』 日本人の精神を外国人に伝えたい

 メアリーを連れて帰国後、教授として札幌農学校に赴任するものの、夫婦共に体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で療養生活を送ることになりました。この療養中に、稲造は「武士道」を英文で書きあげます。

 この著書の中で稲造は日本人古来の精神、武士道がこれまで日本人の倫理や道徳、文化などを支えてきたということを稲造の視点で分かりやすくまとめ、アメリカ人に日本を理解してもらえるような主旨で記されています。

しかし、それだけではなく、日米の異文化間に板挟みにされた自らの苦悶と、両国間にある価値観の確執をどう融合させていけばいいのかという課題についての内容でもありました。当時は日露戦争があり、日本が勝利したことで日本人に対する関心が高まっていました。

そのこともあり、「武士道」はドイツ語やフランス語など各国の言語に翻訳され、ベストセラ―になりました。

日米関係を協調する役目は自分にしかできない

 第一次世界大戦後、国際連盟が創設され、稲造は事務局次長として北欧のオーランド紛争の解決や、ユネスコの前身の国際知的協力委員会の創設などに励みました。しかし、日米関係は平和になるどころかどんどん険悪さを増していきます。

 晩年、稲造は日本の満州政策についてのアメリカの誤解を解いて、対日感情を和らげるため渡米します。「日本人最初の国際人として、日米間を協調する役目は自分にしかできない」という信念を持ちながら、日本の立場を理解してもらえるようアメリカで100回以上もの講演を行いました。

 しかし、アメリカの世論はすでに日本に対して厳しく、稲造の講演によって覆る期待はできませんでした。帰国した稲造に、更なる追い打ちがかかります。稲造が事務局次長を務め、評判を上げた国際連盟を日本が簡単に脱退してしまったのでした。

自らの努力が報われなかったとしても、稲造は途中で諦めることはしません。体調不良でも、カナダで開催された太平洋会議に日本の団長として出席。その場で国際平和を訴えます。しかし、日本のため、アメリカのために架け橋となって身を粉にして平和を訴えてきた稲造は、無念にもビクトリア市で病床に臥し、19331015日、71歳でこの世を去りました。

 現代人が学ぶべき、「国際人」としての信念

国際人として知られる稲造の生涯は、太平洋の架け橋になるという信念に基づいたものでした。この偉大な人物から、グローバル社会となった現代人が学ぶべきことは本当に多くあります。

昨今のグローバル社会においては異なる国同士が協調し合いながら、ビジネスや異文化交流をしていく必要があります。「武士道」の中で、稲造は異文化で理解し合う際の心得についてこのように説いています。

「人間は、それぞれ考え方や、ものの見方が違うのが当然である。その違いを認め合い、受け入れられる広い心を持つことが大切である」

当たり前のように感じるでしょうが、受け入れられない異文化間の問題を乗り越えるためには必要な信念です。さまざまな異文化に触れる機会が増えた現代だからこそ、改めて稲造の信念を学び、身につけることが大切なのだと思います。

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