なぜ日本企業の意思決定と責任の取り方は問題なのか?
なぜ日本企業の責任の所在は、いつも不明確なままなのか?
フランス初の日本的経営を学ぶ国立レンヌ第一大学経営学院・日仏経営センターのトップだったデュラン教授が「日本の経営者は失敗しても、大した責任を取らなくてもいいから羨ましい」と筆者に半分冗談で語ったことがある。かつて筆者は同大学院で教鞭を取っていた。最近、つくづくトップの責任について考えさせられる。
巨額の損失を出した東芝の例を待つまでもなく、古くは山一證券に始まり、オリンパス、三菱自動車など一流大企業の不祥事や経営判断ミスが起きるたびに、意思決定のプロセスが問われ、誰が責任を取るのかが取り沙汰される。象徴的には数人の責任者が何らかの制裁を受けるのが通例だが責任の所在は、いつも不明確なままだ。
責任という視点から見ると、何も大企業トップだけに限らず、課長や部長クラスなど少人数でも人の上に立つ者には責任が生じる。無論、組織が大きくなれば意思決定プロセスも複雑化する。それでも最終的には誰かが決断を下し、行動に移すことになる。
日本企業の場合は?
日本の意思決定は独特と言われてきた。コンセンサスを重視し、稟議が回り、最終的には専門性を持たず、現場からも遠い上層部で決定が下される傾向が今でも強い。意思決定が遅いことに対してスピード感が要求されるグローバルビジネスの足かせになっているとも言われてきた。
日本独特の落とし所を探るという精神文化も影響している。何事も落とし所があり、数人による議論を重ねながら落とし所を見つけ、決定が下されることが多い。そこには誰か一人の人間が最終決定したという意味合いは薄く、責任者は意見の調整と集約を行ったに過ぎないという場合が多い。国会議員でも委員会での質問に直接答えず、関係省庁の役人が回答するケースを良く見る。
欧米の場合は?
ところが欧米のリーダーは、さまざまな関係者から出された意見や提案に対して、たとえ専門知識がなかったとしても、自分の権限が及ぶ範囲であれば、意志決定者として、あるいは決断者として、自分で考え抜いた上で、ヴィジョンなり、方針なりを打ち出すのが普通だ。また、そのことに多くの時間を費やす。
だから、大抵は決定事項については数字を含め、詳しい情報が頭に入っている。アメリカのビジネススクールの心理学の研究でも、集団で何かを決めた場合は、各人のコミットメントは一人の時より落ちるという結果が出ている。落とし所で決めた場合も同じことが言える。民主的プロセスを踏んでもリーダーは必要だ。
意思決定すれば、決断し、行動に移すわけだから、結果に責任が生じる。アメリカで管理職者が高給を取る理由は、その決断と責任の重さにある。また、失敗した場合は多くの場合解雇になる。高給はその保険でもある。組織のガバナンスにはそれを担う人がいて責任も取るのは当然とされる。
なぜ日本企業が変わらなければならないか?
日本の場合は、ミスは組織が吸収してきた。なぜなら最初から仕事は集団で取り組んでいるので、責任の所在も不明確と考えるからだ。そこに作用するのは部下の上司への忖度と上司の権威主義的圧力の関係だ。だから、意思決定や管理をする者の責任意識は極めて薄い。
日本文化が産み出した非常に分かりにくい意思決定システムは今、機能不全に陥っている。グローバル化が進み、意思決定のプロセス、責任の取り方は大きく変わる必要がある。なぜなら共通の遺伝子を持つ日本人だけで仕事をする状況は減りつつあるからだ。
コラム62 4・13・2017記
安部雅延 (あべ まさのぶ)
国際ビジネスコンサルタント。欧米アジア・アフリカ地域での豊富なグローバルビジネス経験あり。フランス・レンヌの国際ビジネススクールで20年以上、グローバルマネジメント、異文化間コミュニケーション、交渉術、比較文化などの教鞭を取る。日本企業の研修経験豊富(日産自動車、日立、日本通運、東芝、富士通、NEC、ニッスイ、ホンダロジスティックス、DeNA、三菱東京UFJ銀行など多数)。さらにフィリップス、HSBCなど外資系企業も多数。特にグローバル人材開発に特化し、最新の理論、現在進行中のグローバルビジネスへの関与等による豊富な経験談、データ、実際に起きた事例を駆使するのが特徴。国際ジャーナリストとしても活躍し、雑誌などに寄稿。これまでに30カ国以上を取材し、世界の政財界、学者へのインタビューも多い。
著書『日本の再生なるか』(財界通信社)、『下僕の精神構造』(中経出版)、訳書『愛するモンサンミッシェル』(ウエストフランス社)など。
● グローバルマネージメント研修