日本の偉人「その時、岡倉天心は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー

日本の偉人「その時、岡倉天心は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー
日本の偉人「その時、岡倉天心は異文化を超えた」
クロスカルチャー・ストーリー

 大きな時代の変化が訪れた明治時代の、美術史学研究の開拓者である岡倉天心。日本の伝統美術の素晴らしさに魅入られ、国内外に日本美術の優れた価値を広める美術運動家として、近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。

日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、様々な活動を行ってきた天心。また、「東洋の理想」、「日本の覚醒」、「茶の本」という著書を英文で執筆し、東洋や日本の美術、文化を西洋社会に向けて紹介する国際人として活躍しました。

晩年には茨城県五浦に移住し、新しい日本美術の創造を目指す活動を精力的に行っていきました。生涯を日本美術の発展に捧げた岡倉天心の活動、そして国際人としての歩みをご紹介します。

国際人としての基礎を作った幼少期

 天心(本名・岡倉覚三)は幕末の時代、1863年に福井藩士だった父、勘右衛門の次男として横浜本町で生まれました。父は藩の命により、「石川屋」と名乗り、福井の特産品や生糸の輸出などの商いをしていました。

天心の母、このは前妻を亡くした勘右衛門の後妻として嫁ぎ、4人の子供を産んだのですが、末娘を産んだ際、命を落としてしまいました。その後、勘右衛門は再婚をしたものの、長男がカリエスのため手がかかり、子供全員を育てることが困難に。

そのため、天心は兄弟と離れて、このの葬儀が行われた長延寺(現・オランダ領事館跡)に預けられ、そこで漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)を学び、宣教師ジェームス・バラの英語塾で英語も学びました。

幕末の文明開化の時代、海外との関係委が密接だった横浜の開港地で国際的な価値観を身につけた天心。長延寺、バラの英語塾での学びは、国際人として後に活躍する天心の基礎を形作ったのでした。

 天心が10歳のころ、家族で上京し、天心は英語力を更に身に着けるため、東京外国語学校に入学。12歳になると、東京開成学校(現・東京大学)に入学し、政治学や理財学を学びました。

英語が得意だった天心は講師のアーネスト・フェロノサの助手になり、通訳として共に行動をするようになります。日本の美術に魅入られ、研究をしていたフェロノサの美術品回収の手伝いもする内に、天心自身も日本の古美術へ興味を持つようになっていきました。

新しい日本画の創造をめざす青春時代

 16歳の時、当時13歳だった基子と結婚。翌年、東京大学文学部を卒業するのですが、提出するはずだった「国家論」の卒業論文を夫婦喧嘩の際に基子に焼かれてしまい、わずか2週間で「美術論」を書き上げて提出したという逸話があります。この「国家論」と「美術論」の中に、後の活動や著作に現れている天心の基本姿勢がすでに記されていたそうです。

 大学卒業後、文部省へ就職し、草創期の美術行政に携わりながら、フェロノサの通訳や助手も務めました。それと同時期に専修学校(現・専修大学)の教官となり、創立時の繁栄に貢献。この時に専修学校の師弟関係となった、政治活動家の浦敬一は、天心の指導によって大きな影響を受けたといいます。

 その後、文部少輔の九鬼隆一に従い本格的に全国の古社寺調査を行い、日本美術の優秀性に惹かれ、今後もずっと守っていくべきものだという認識をするようになります。そして、フェロノサとともに美術取調委員として、欧米各国の美術教育情勢を視察するために渡米。

帰国後、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)をの開校するための準備を急ぎます。開校後、27歳にして2代目の校長となった天心。同校で行った3年間の「日本美術史」の講義は、日本の美術史学の基礎となったとされています。天心は、新しい絵画の創造を志し、横山大観、下村観山、菱田春草など、気鋭の新人作家を育てていきました。

日本の美術の発展のため、新人を育成し、学びを与えてきた天心。新しさを追求してきた天心ですが、伝統的な古来の日本美術を曲げない保守派の人々からバッシングを受け、校長を退くことに。

その半年後、橋本雅邦をはじめとする26人の同志とともに「日本美術院」を創設し、美術の研究や制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めました。天心が育ててきた横山大観、下村観山、菱田春草などは、輪郭を線ではっきりと描かない大胆な没線描法を推し進めたものの、激しい非難を浴び、世間には受け入れられなくなっていきました。徐々に「日本美術院」の経営は行き詰まり、天心は海外に目を向けるようになります。

アジアの素晴らしさを欧米に発信

その後、インドに渡った天心は、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の起源を確かめ、「アジアは一つ」の言葉で有名な、『The Ideals of the East(東洋の理想ー日本美術を中心として)』を英語で書き上げ、出版します。

この著作によって、天心は日本・東洋美術の権威と見なされ、ボストン美術館に招かれます。ボストン美術館で職を得た天心は、中国日本美術部を充実させ、その間に「日本の覚醒」、「茶の本」を英文で記し、出版しました。

茶の本 The Book of Tea【日英対訳】(対訳ニッポン双書)

幕末以降、日本人だけではなく、アジア全体が欧米に劣るとされており、欧米の人たちからは野蛮な民族だとみなされてきました。アジア人も西洋文明へのコンプレックスを抱いていた時代でしたが、天心の著作ではむしろアジア人であること、日本人であることを誇りに思い、アジアの文化、精神の素晴らしさ、優秀さを欧米に向けて発信しました。

 帰国後、茨城県の五浦を訪れ、太平洋に臨む人里離れたこの地を気に入り、五浦を本拠地とし、それ以降はボストンと五浦を行き来する生活を送るようになりました。そして、経営難に陥り、活動が衰退していた「日本美術院」の再建を図り、五浦に移転。

ここを「東洋のバルビゾン」と称した天心は、新しい日本画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せました。以前は受け入れられなかった新しい画法に手を加え、近代日本画史に残る名作を次々と発表していき、新しい日本画を創造する活動は推し進められていったのでした。

 晩年、天使はボストン美術館において中国、インド、日本での美術品収集を行ったり、日本や東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演活動を行ったりしていきました。ところが、50歳になった頃、体調を崩してアメリカから帰国。五浦に戻った後、静養のため新潟県赤倉に移ったのですが、病状が悪化。1913年9月2日、50歳という若さでこの世を去りました。


 日本美術の改革、作家の育成、学びの提供、アジアへの欧米に対する誤認識の払拭など、国際的に様々な活動をしてきた天心。アジアだけではなく、世界的に認められた天心の活動は、現代の日本美術、そして日本の歴史に残る功績でした。アジア文明が西洋文明より劣っているとみなされていた時代に、アジアの文化を誇らしく、優秀なものだと紹介し、アジア人を鼓舞した天心の著作は今もなお、受け継がれています。

西洋の文化に押し流されるのではなく、自分の原点である日本文化、そしてアジアの文化に誇りを持って世界に発信した天心の姿勢から、現代の私たちも見習うべき点があるように感じます。日本人としての誇りを持ちながら、新しい西洋の風を取り入れていく、そんな思いで英語を身に着け、国際人として活躍していきたいものです。

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