日本の偉人「その時、鈴木大拙は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー&名言 

日本の偉人「その時、鈴木大拙は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー&名言 

日本の偉人「その時、鈴木大拙は異文化を超えた」
クロスカルチャー・ストーリー&名言 

仏教学者として、日本(東洋)の禅文化を伝えるため、英語で禅についての著作を著した鈴木大拙。「世界人としての日本人のつもりでいる」と語る鈴木大拙は、東洋と西洋を一つにする夢を持ち、21歳で禅寺に入り、27歳で渡米。禅を英語で伝えるという前代未聞の偉業を成し遂げる人生を歩み始めました。鈴木大拙の、世界人としての生き方、思想とはどのようなものだったのでしょうか。

 

西洋と東洋をつなぐ架け橋となった生涯

1870年、石川県金沢市本多町で、旧金沢藩藩医の4男として大拙は誕生しました。本名は貞太郎。幼少期に父が他界し、経済的に厳しい家計ながらも第四高等中学校(現・金沢大学)に進学。しかし、残念ながら卒業まで通いきれず、退学を余儀なくされました。それから英語教師として働いていたのですが、まだまだ学びたいことが尽きなかった大拙は、再び学問を志して上京します。

早稲田大学の前進となった東京専門学校や、東京大学の前進となった帝国大学選科に入学。在学中に、幕末・明治時代を代表する臨済宗の禅僧で、鎌倉円覚寺の今北洪川と、日本人の僧として「禅」を「ZEN」として初めて欧米に伝えた禅師として知られる釈宗演に参禅しました。

釈宗演から「大拙」という居士号を受けます。「大巧は拙なるが如し」からとったもので、真の名人は小手先を使ってよく見せようとはしないから、一見つたないように、下手なように見えるという意味。つまり、何にもとらわれない境地の中に大いなるものが現れるということで、釈宗演は「大拙」という居士号を与えたのでしょう。

またこの時期、釈宗演のもとで禅について研究していたベアトリス・レインと出会います。ベアトリスとは後に結婚し、彼女の影響もあって、大拙も後年はインドのチェンナイにある神智学協会の支部で神智学徒となります。

27歳の頃、釈宗演との縁により、アメリカに渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社、オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版や、翻訳、通訳の仕事に11年間従事しました。その間に、英訳『大乗起信論』や、『大乗仏教概論』など、禅についての著作を英語で著し、化ならびに仏教文化を海外に広く伝える功績を残しました。

そして39歳で帰国。帰国後は円覚寺の正伝庵に住み、学習院大学で英語を教え、その後、大谷大学の教授に就任。これを機に京都に居を移します。そして、大谷大学内に東方仏教徒協会を設立し、「イースタン・ブディスト」という英文雑誌を創刊。現在も同協会より刊行されているほど、大きな影響力を与えました。

学問の世界で活躍し、ベアトリスと幸せな家庭を築いていた大拙ですが、69歳の時、ベアトリスが大拙を残して天に召されていきました。悲しみに包まれていた大拙ですが、自分のやるべきことはまだまだあると奮起し、北鎌倉の東慶寺住職、井上禅定と共に、1941年に創設した「松ヶ岡文庫」で研究生活を始めました。

そして79歳になった1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、禅研究法に関して討論を行いました。同年、文部科学省が管理する、学術研究のための機関である日本学士院の会員となり、文化勲章を受章。

大拙はこれに満足せず、自らの学びや禅、仏教思想を再びアメリカに伝えるため、翌年の1950年から1958年にかけて、アメリカ各地で講義を行って回りました。アメリカから歓迎された大拙は、コロンビア大学の客員教授として滞在し、禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に、米国上流社会に禅思想を広める立役者となったのです。

また、ハワイ大学エール大学ハーバード大学プリンストン大学などでも講義を行い、大拙の禅の思想は幅広く知れ渡ったのでした。

88歳で帰国してからも、大拙は休むことなく学問を追求し、研究生活を続けました。そして1966年、絞扼性腸閉塞により、95年間の生涯に静かに幕が降ろされました。

 

禅の修行者、研究者としての大拙の思想

生涯に渡って研究を続け、欧米に禅、仏教思想を広め、偉大な功績を残した鈴木大拙。日本は西洋に劣っている、西洋から見た日本は野蛮な国だ、そのような偏見のあった時代に、大拙は西洋の言葉と思想を深く学び、その上で自らの禅体験や仏教研究をもとに、日本の禅や仏教を欧米へ伝えていきました。

大拙が何故、生涯をかけてこのようなことを行ってきたのか、大拙自らその動機をこのように語っています。

「西洋の方と比べてみるというと、どうしても、西洋にいいところは、いくらでもあると……いくらでもあって、日本はそいつを取り入れにゃならんが、日本は日本として、或いは東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもあると、殊にそれは哲学・宗教の方面だ と、それをやらないかんというのが、今までのわしを動かした動機ですね」

 東洋と西洋、全く異なる思想、背景を持った文化圏を一つに繋ぐため、大拙は一生を捧げました。そのために言葉はとても重要な役割を担っていたのです。禅は言葉や文字に信頼を置かず、言葉を超えた本質へと坐禅などの修行を通して悟りを得る宗教です。

しかし、大拙は西洋に禅の文化を広めるという使命感のもと、西洋の言葉を学び、言葉を排除する伝統的な禅に思想を加え、西洋の人達にも分かりやすいように禅について講義を行ってきました。

 大拙は、西洋と東洋をつなぐ「ひとつの世界」の可能性を模索し続け、西洋人の女性、ベアトリスと結婚をし、2人で共に西洋と東洋をつなぐ架け橋になるという目標を持ち続けていったのでした。

  大拙はこの目標を成し遂げるため、「禅とは何か」、「無心ということ」など、約100冊にも及ぶ著作を著し、欧米の若者にも大きな影響を与え、サリンジャーやエーリッヒ・フロムなど、多くの作家や芸術家とも交流があったそうです。西洋の人達に影響を与えた大拙の数々の名言を最後に紹介します。

 日本を世界のうちの1つのもの、としなければいかん。今、日本が、日本がと、やたらに言うようだが、日本というものは世界あっての日本で、日本は世界につつまれておるが、日本もまた世界をつつんでおるということ、これは、スペースや量の考えからは出てこない。そのように考えるためには1つの飛躍が必要とされる。その飛躍が大事なのだ

 言葉は言葉であって、それ以上の何ものでもない。言葉が事実を符合しなくなった時、それは言葉を捨てて事実に帰る時である。論理が実行価値を持っている間は、それの利用も出来るが、利用がきかなくなるか、もしくは自分の境界を超ゆる時には、吾々はそれの停止を命じなければならない」

 「東洋の心は無心になる事。どこまでいっても無限で天地の分かれがない。

西洋は二次元の世界。底には対立があり、一方は他を力で支配しようとする」

 ここでは、どの一つの草木も「われこそほんとうの緑だ」といって、他余すなわち他己を排することをしない。各自が自己の緑をもちながら、他己の緑と一つに、山野を限りなき果てまで充実させているのである

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