日本の偉人「その時、李方子は異文化を超えた」クロスカルチャー・ストーリー
日本の偉人「その時、李方子は異文化を超えた」
クロスカルチャー・ストーリー
朝鮮李王朝最後の皇太子、李垠(イ・ウン)殿下に嫁いだ日本の元皇族がいました。その方は、李方子(り・まさこ)さん。日韓の暗い歴史の中で辛い結婚生活を送ってきたにもかかわらず、李垠殿下の死後、日韓の架け橋のような存在となりました。
自身の祖国について、「二つあります。一つは生まれ育った国、そしてもう一つは骨を埋める国です」と語っています。生まれ育った国とは日本、骨を埋める国とは韓国のこと。
両国の間で人生をほんろうされながらも、国を超えて人を愛した李方子さんの人生とはどのようなものだったのでしょうか。
波乱万丈の結婚
1901年11月4日、梨本宮守正王と伊都子妃の長女として生まれました。後の昭和天皇となった裕仁親王の王妃の有力候補にあがっていたのですが、15歳の時、思いもしなかった出来事が起こります。
1916年8月3日の早朝、避暑のため梨本宮家大磯別邸に滞在していた時、手元にあった新聞を何気なく開くと、そこには、「李王世子の御慶事-梨本宮方子女王とご婚約」という見出しが。自分の写真の隣には、朝鮮王朝高宗(コジヨン)国王の第7王子、李垠殿下の写真が掲載されていました。
その記事をみて初めて自分の婚約のことを知り、大変ショックを受けたそうです。しかし、方子さんは自らの運命を受け入れ、母の伊都子妃にこう話しました。
「世間では親とか家とかのために結婚することは珍しくなく、本人の意思が重んじられないのは普通のこと。皇族はさらに自由がないとはいえ、せめて新聞に出る前に知らせて覚悟を決め、『お受けします』ときっぱり申し上げたかった」
また、正式に父守正殿下から婚約を告げられた時には、「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます」と答えられたそうです。
それから4年後の女子学習院高等科を卒業した方子さんは、「日鮮の架け橋」「日鮮融和の礎」としての役目を担うために1920年4月28日、東京六本木・鳥居坂の東京・李王邸で結婚式が挙げられました。
李垠殿下も方子さん同様、日韓の辛い歴史の中で人生を翻弄され、10歳の時、日本留学を強要されました。その背景には、皇太子であった李垠殿下を日本で教育し、日韓両国の永遠の礎を築こうという伊藤博文の計画がありました。
これに対して韓国側は、李垠殿下を人質として受け止めたのです。それもそのはず、李垠殿下が留学を強要されたのは、韓国が日本の植民地化となった2年後。留学は名目で、人質と捉えるのは自然なことでしょう。
10歳という幼い年齢で両親から引き離され、人質という立場でありながら、後に日本の軍人となっていく道が敷かれていたのでした。韓国の王子でありながら敵対する日本人の言いなりにならざるを得ない李垠殿下は相当苦しんだことでしょう。
自分の運命をしたたかに受け止め、李王家に嫁ぐために固い決意をしていました。まず外見からその決意を表すため、髪を真ん中で分け、ぴたりと横に流す朝鮮式の髪型に変えました。
そして、日本人のせいで父を亡くした李垠殿下の胸の内を推察し、心から夫を愛し、慰めることができる妻になり、暖かい家庭を築いて差し上げたいという気持ちを強く持ち続けました。
人種、異国間の壁を越えて、ひとりの女性として、李垠殿下を支えていき、結婚後の危機と困難を乗り越えることができました。
「日本人でも韓国人でもない、中途半端な人間」
結婚して東京に住むことになった方子さんは、結婚2年後の1921年(大正10年)、第一子の晋(チン)が誕生。
出産したことを李垠殿下は大変喜ばれ、出産直後、「元気な男の子です。ご苦労さま」と言って優しく労わり、その顔はそれまで見たこともない笑顔で喜びに満ち溢れていたそうです。子供を連れて里帰りしてほしいと韓国側から要請され、朝鮮を訪問しました。そこで朝鮮王朝風の結婚式を挙げ、式は滞りなく終了しました。
ところが、帰国直前になって晋が突然嘔吐し、急性消化不良と診断され、方子さんは懸命に看病したものの、5月11日に亡くなってしまったのでした。ようやく授かった命を8カ月で亡くした方子さんは悲しみに打ちひしがれましたが、夫の李垠殿下が励まし、支えました。
その後、徐々に立ち直っていった方子さんは1931年、第二子の玖(ク)を出産。李垠殿下はその後、大日本帝国陸軍将校となり、朝鮮人でありながら、日本の軍人という立場で、日本で暮らし続けました。
しかし、日本の敗戦後、更なる悲劇が訪れます。2人は王族の立場を剥奪され、一般の在日朝鮮人という立場になってしまいました。生まれつきの王族だった2人は生活力が全くなく、体験したことのない苦労を背負わされました。
更に、廃止された王家には一時金が支給されるのですが、軍人はその対象としないということから2人には一時金が支払われることはありませんでした。また、日本の軍人であったにもかかわらず、韓国人であるとして李垠殿下には軍人恩給も支払われなかったのです。
これまでの生活とは打って変わって、毎日の暮らしが苦しく、李垠殿下は日に日に塞ぎ込むようになってしまいました。幼い頃、両親のもとで過ごした祖国に思いをはせ、何度も駐日代表部を通して帰国を打診しましたが、当時の李承晩大統領が許可することはありませんでした。
このような辛い現状の中、「私はすでに朝鮮人ではない。といって日本人にもなれない。結局どちらでもない中途半端な人間なんだ」と常日頃口ぐせのように言っていたそうです。その後、李垠殿下と方子さんは、日本からも韓国からも見捨てられ、無国籍状態に陥ってしまったのでした。
韓国のオモニと慕われた晩年
ようやく帰国が実現し、韓国政府によって国籍が復活されたのは1963年、李垠殿下66歳、方子さん62歳の時でした。しかし、李垠殿下は病魔に蝕まれており、寝たきりとなっていました。
夫が祖国に戻れたと意識できる内に祖国の地を踏ませてあげたいと願っていました。しかし、祖国に戻れた時にはその願いは叶わず、夫ははっきりと意識できないまま帰国。
韓国で夫の看病を続けながら、福祉事業に貢献したいという夫の願いを引き継ぎ、知的障害児、肢体不自由児などの障害児教育に邁進し、生涯を持つ子供のための施設や、精神薄弱児のための教育機関を設立しました。
韓国で叶えたかった2人の夢が実現しましたが、1970年5月1日、方子さんに見守られながら、李垠殿下は静かに息を引き取りました。
夫の死後も方子さんは韓国にとどまり、寄付を集めるために100回以上も韓国と日本の間を往復したり、李王朝の宮廷衣装ショーを世界中で開催するなどして資金を集め、障害児教育施設を設立するなど、韓国の障害児教育に尽力しました。
「チョッパル(日本人の蔑称)が寄付なんて図々しい」
「よその国で何を始めようというのだ」
「おとなしく飼い殺しされていればいいのに」
このような風当たりにも負けず、障害を持つ人たちの支援活動を続けていきました。1981年には韓国政府から「牡丹勲章」が授与され、1989年に87歳で生涯を終えた方子さんの葬儀は準国葬の扱いとなりました。
後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)が追贈され、韓国では尊敬される女性のベスト5に常に名を連ねる人物となりました。
日本と韓国の間で人生を翻弄された夫を支えながら、夫の死後も2人の夢を実現させるために韓国の障害児教育に全てを捧げた方子さんは韓国のオモニ(母)として慕われました。
両国の歴史的、政治的な暗い闇の中で辛い人生を送ってきたにもかかわらず、人種を超えて人を愛した方子さんの深い愛に、多くの人が感銘を受けました。
日本人として韓国人に尽くした方子さんの信念は、現代を生きる私たちに進むべき道を示してくれているように思います。