【今月の海外赴任道コラムVol.26】
評論家で故人の草柳大蔵氏に自宅で昼食を振る舞われたことがある。草柳氏は後半の人生を講演に明け暮れる生活に追われていた。氏曰く、毎月約200通の講演依頼が来る中で、最大8回の講演を月に行っていると話していた。バブル全盛の1980年代末の頃の話だ。
当時は多くのビジネスマンが、草柳氏の話に耳を傾けたものだ。氏との昼食では多くの興味深い話が聞けた。中でも「たかが商人、されど商人」という話は興味深かった。当時、イタリアに傾倒し、毎年イタリア詣でを繰り返していた草柳氏は、イタリアのルネッサンス期のメディチ家の例を引き、商人と聖職者、権力者の棲み分けについて語った。
フィレンツェで権勢をほしいままにした大富豪のメディチ家は金融業で大成功を修め、政治力も発揮した。そして最終的権力を握るために親族からローマ教皇を排出するに至ったが、その後衰亡していった。その時代に権力を掌握するには財力と政治力だけでなく、宗教的な影響力が大きな意味を持った。
無論、社会の構図は現代とは大きく異なるが、経済的成功だけでは人々の尊敬を集めることはできなかったという話だ。草柳氏は江戸時代に存在した士農工商という社会的ヒエラルキーはメディチ家の時代と通じると指摘した。さらに日本の経済界の指導者が偉そうに人生訓を語ることを批判した。
その話の流れで、パナソニックの創業者、故松下幸之助氏(当時は存命)に対して批判的な意見を述べた。松下幸之助にしろ、盛田昭夫にしろ、あるいは本田宗一郎にしても、世界に誇れる日本を代表する優れた製品を世に送り出し、戦後の復興期から高度経済成長期にかけて多くの人々を雇用したという意味では社会的貢献度の高い人物といえるが、どこまでいっても商人は商人という考えだ。
今、ビジネスリーダーを目指す人々や実際に大企業を率いているリーダーが聞けば、傲慢に思える話だが、「金儲け」と「世のため人のため」という概念は、完全に一致することはないという話だ。日本では偉大な指導者と称される人物が歴史上に何人も存在するが、戦後の日本においては国の指導者として、誰もが尊敬する人物はそれほど見当たらない。その一方、財界ばかりが取り上げられる。
欧米諸国では、ビジネス成功者が社会的評価を得るために慈善活動に莫大な寄付を行うのは普通のことだ。日本的にいえば浄財になるのかもしれないが、キリスト教的価値観から来ているものだ。最近、仕事に復帰したマイクロソフト社の創業者、ビル・ゲイツ氏はエイズ撲滅のために800億円以上の資産を投じ、今も財団を運営している。
これは一例に過ぎず、ビジネスで成功した多くの欧米の富豪が、人道支援活動に巨額の寄付を続け、そのことで社会的評価を得ようとしている。企業の公益性が指摘されて久しいが、ビジネスはどこまでいっても生き馬の目を抜く熾烈な競争の中で利益を出すことが最終目的にある。
だから、どんなに安価で優れた製品を世に提供したとしても、見返りのない無償行為とは言い難い。そのような企業活動に関与する人間が、人々の人生の本質を語るのはおこがましいという認識は、日本のビジネス界ではあまり見当たらないように思われる。
安部
コラム26 2・14・2014記
<たかが商人、されど・・・>